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オルト

鶴巻育子写真展

 

作家メッセージ

1 隣にいる人

2 ※写真はイメージです

3 見ることとは何か

プロフィール​

3 見ることとは何か

 人は情報の8~9割を視覚から得ており視覚に依存していると言われている。写真を撮る行為はその最たるものかもしれない。しかし私は気配だったり、空気感、見えないものを写したい欲望がある。頭ではなく身体で感じたときに撮ることでそれに近付ける気がするが、そう簡単には撮ることができない。

 写真を趣味にしている全盲の西尾憲一さんは同行する人の目と言葉を借りながら撮影している。ある時私は視覚に頼り過ぎずに写真を撮りたいと彼に話したことがある。「簡単ですよ、目を瞑って撮ればいいじゃないですか。」と提案された。しかし晴眼者の私がもしその方法をとったとしても、ただの真似事に過ぎない。視覚に頼らず何かを捉える方法は視覚以外の感覚を使って生きている人たちが知っている。そこで視覚障害のある知人3名に頼み、一緒に街を歩き写真を撮ってもらうことにした。撮りたい場所を指定してもらい、撮影当日コンパクトカメラを渡し操作方法を教え、あとは彼らが好きに歩き気になったところでシャッターを押してもらうことにした。私は聞かれた時だけ情報を伝えた。

 

 私は人が行き交う瞬間を捉えたり、光と影を追い色や形を見分け、奥行きや構図も操りながらいつものように自在にシャッターを切った。それに対し彼らは、私の予期しないところでカメラを構える。人の話し声や車の騒音、飲食店から漂う香り、太陽の温度にも反応する。砂利道に差し掛かった足の感触で地面にカメラを向けていることもあった。

 

 以前読んだ伊藤亜紗さんの著書「目の見えない人はどう世界を見ているのか」の一節を思い出した。「見える人は、見ようとする限り、必ず見えない場所が生まれてしまう。(中略)しかし、見えない人というのは、そもそも見えないわけですから、『見ようとすると見えない場所が生まれる』という逆説から自由なのです。視覚がないから死角がない。」彼らは目の前にあるものだけに囚われずに世界を見ている。故に被写体となる対象も捉える範囲も私より広いわけだ。

 

 彼らが撮影した写真を確認すると、なぜここでシャッターを押したのか想像できないものもあるし、被写体が画面に収まりきれずはみ出したり、近づき過ぎてボケていたり、一般的には失敗と言えるものも多くあったが、悔しいかな私には撮ることができないものが写っていた。私は見えないものに気付けない、言い換えれば見えるものしか撮ることができない。誤解してはいけないのは、視覚障害者の人々は聴覚や触覚、嗅覚がとりわけ優れているわけではなく、視覚以外の感覚を手がかりにするしかないということ。まして第六感や霊的感覚を持っているわけでもない。彼らは晴眼者とは異なった方法で見るという行為をとっているのだ。

 

 そういえば視覚障害者の人々の口から「昨日観たYouTubeが面白かった」「あの人、見た感じ優しそう」というように、日常的に「みる」という言葉をよく耳にする。視覚以外の感覚で感じたことを「みる」と表現するのだ。ヴァイオリニスト、和波孝禧さんの著書「音楽からの贈り物」の中に全盲の和波さんとお母様が交わした私が大好きなエピソードがある。

 

五歳の秋、十五夜のことだ。母が縁先に出て「まあ、きれいなお月様」と声を上げた。すると、それを聞いた私がちょこちょこと縁側に出てきて、母と並んで空を見上げ「ほんとにきれいなおつきさま」と言ったというのである。お手伝の珠ちゃんが「おや、坊っちゃん見えるんですか」と、目を丸くしたとのこと。いや、見えるわけはないのだが、母の声からそこにきれいな月が見えていることを感じた私が、自分でも見ている気持ちになって「ほんとにきれい」と言ったのにちがいない。そこに美しい月が見えている、という事実があればよいではないか。自分で見なければそれが信じられないというのは、あまりに貧困な気がする。

目で見ることが全てではない。
感じることは見ること。
見ることとは何か。


伊藤亜紗…東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター。リベラルアーツ研究教育院教授。


 

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